Monday, December 08, 2008

national

社会学っていうのも、やっぱりナショナルな言説の中で作られてきたものだからいろんな限界がある。社会という概念そもそもが、「国」とは切っても切れない関係の中で構築されてきたわけだし。
グローバリゼーションっていうのは、そのナショナルなものを越えて起きている部分が多いと思うけど、それを学問の領域で扱って、思考することって本当に難しい。

で、もっと身近な話をすると、たとえば私。
私は「外国で生活」をしてきた人間。
だからなのか、私が何か意見をすると、周りの人たちは、「あ、この子はフランスにいたからこういう考え方するんだ」とか「あ、フランスにいたけど、こういうとこは日本的な考え方なんだ」とか思って聞いているようだ。
果たして私の考えていることってそんなふうに集約されうるのか?そもそも私という一個人が発言するレベルにおいての「フランス的な考え方」とか「日本的な考え方」ってなんだ。それに100歩譲ってそういうものがあったとしても、それがいくつか重なったら、まったく違うものになるんじゃない?

誰かが何かを意見するとき。それが誰であっても、なんだか話を聞く側っていうのは必ず「この人は何人」という認識を持って聞いている気がする。たとえばフランス人が発言して、それがたまたま自分にとって目新しいと、「あ、フランス人ってこういう考え方するんだ、日本人とは違うなぁ」、みたいな感想を持つことって普通にありえる。同じ意見を他の日本人が持ってる可能性だってあるのに。

私という存在にフィルターみたいなものがかかっていて、それが結局「国籍」な気がする。
もちろんどこで教育されたか、っていうのは、人格形成とか思考形成にとっては重要な要因だとは思う。でもそれを誰もが自分なりに消化してるわけで、ひとつの国に集約されるような単純なものじゃないと思う。

だからどうしろ、っていうわけじゃないし、そもそも自分だってそういう風に見てしまうことが多々ある。そんなときに、ふとこのことに気づけるか、ってとこかな。