Tuesday, April 22, 2008

書くということ。



頭の中では分かっていること。
いろいろと考えながら、なんとなくイメージできていること。
そんなことっていっぱいある。



でも実際、それをレポートとか論文、あるいは図式化をしようとすると
その作業はものすごく難しいものになる。
あれほど頭の中ではすっきりと整理され、理論的に組み立てられていたものでも
ペンを取った瞬間に
あっという間に
矛盾し、支離滅裂なものになってしまう。



それでも、苦労して書いたとき
頭の中にあったものが、文章として見えるものになった瞬間
イメージしていたアイディアや理論が
はっきりとしたものになってもう一度頭の中に戻っていく。

つまり、書くということで「考える」ということが可能になる。

最近、ベネディクト・アンダーソンの創造の共同体を読み直す機会があった。
印刷物の驚異的な力、
それが生み出したナショナリズム。
社会で起きていること、それが革命であったり、誰かの結婚であったり
それを一回書くことによって、
事実として「見える」ものになる。
そして、書くという行為は
物事に「名前」をつけ、
「意味付け」をすることにもなる。
さらには「分類」をすることにもなる。
なんとなく社会で起きている事柄を、理論的な文章でつなげ、名前をつけると
それが「事件」、「こと」となる。
そして人々の中で、ひとつの「意識」「認識」として広がっていく。

人は考えることになる。

書くという行為が
ある意味、人間の世界を組み立てているともいえる気がする。
でも、書くということは、平面上でおきることであり、もちろん本や論文などにも
ページ数の限界がある。
それに対して「認識」というのは無限。
ひとつの事柄や事件をとっても、その全体を認識し、理解するというのは
人間の限界を超える。



では、この書かれた事柄と、そのもの自体の本質という二つをどうやって自分のものにするのか。
「考える」という重要な行為にどうやって活かすのか。

修論のテーマ決めを急げと急かされ、
いろんなことをぼんやりと考え、メモをしたり
定義付けをしてみたり。
それでこんなこと書いてみた。



写真は青山霊園。
東京の散歩が楽しい。