Sunday, November 29, 2009

モノサシ

ジンメルの思想について読み返し、認識や二項対立っていうことをまたまた考えた。
結局私の問題意識はここにあるから。
修論を具体的に書いていけばいくほど、この点に関して考える。

つまり。世の中を2つに分類して捉えたら。

男対女
外国人対日本人
移民対国民
金持ち対貧民
善対悪

大概の思想の根本にはこういう図式が存在してて。

そもそも人間は分類をしなければ世界を掴むこと、認識することができない。


だって、どこまでが川でどこからが海か。
どこまでが肩でどこからが腕か。
どこからが東京でどこからが神奈川か。
分類がなかったら世の中、文字通りカオス(まぁ混沌という名前をつけて結局認識してるけど)。
ポストモダン的な考え方も、分類ありきで成り立ったし。

ただし、世界を見るため、理解するためのモノサシである分類が、二項対立だけ、っていう人はつまらない。
二項対立で世界を見るということは、人や物事をものすごく単純にjudgeする。あの人はこっち側の人間だから、あの人はあっち側の人間だから。そんな勝手な定義で人を判断できる。アイデンティティを固定化する。そして自分のことまで単純化する。

でももちろんモノサシは必要だし、それがまったくないと、それこそつかみどころのない、個性のない人になってしまう。

でも、どんなモノサシがあるのか、なぜその見方が生まれたのか、必要とされるのか、なぜヒットするのか。そしてなんで自分はそこに共感、あるいは反発するのか。
そういうことを考えてみる。

丸山真男(またまただけど):

『私たちは行動あるいは非行動を通じて他人に、つまり社会に責任を負っています。(・・・)認識することと決断することの矛盾のなかに生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。(・・・)偏向をもつかもたないかでなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。』(現代における態度決定)