Monday, February 23, 2009

脱神秘化

加藤周一の『言葉と人間』はほとんどが3ページずつで完結する。
こんなに限られた枚数の中で、非常に明確に考えをまとめる彼の文章には感嘆する。
ちなみに星進一のショート・ショートでもおんなじようなことを感じるけど。

「神秘主義」と「神秘化」
彼は、歴史における神秘化は好まないとした上で、
そのあとの章で、 徳川時代の社会は、権威の神秘化を行っていて、けっきょく30年代の軍国主義政府もそれを政治的に活用し、そして近代日本の天皇制国家主義イデオロギーを作り上げることに成功したと書いている。
そして。
『「やたとだましひ」を「どこの国」のたましいとも区別して独特なものとするのは、人の好みで神秘化である。「やまとだましひ」も「どこの国でも某国のたましひ」の一つの場合にすぎないとするのは、人の聞くことを欲しない脱神秘化である。しかし客観的な知識は、すべて対象の脱神秘化からはじまるのである。』と続ける。

ちょっと考えたんだけど。
日本の戦後復興とその経済成長は確かに世界が驚くものだった。 でもそれにしがみついて、そのときにはよかった「かもしれない」一党制をほとんど変わらず今にも通用させようとする政治家とそれを支持する国民というのはある意味この「輝かしい」過去、すなわちすでに「神秘化」された過去を忘れられずにそこにしがみついているからかもしれないと。

私は戦後のすさまじい経済成長を経験してない。
もちろんその場にいたら今の私はこう考えることはできなかったかもしれない。
でも、過去を「神秘化」していることに気がついて、「脱神秘化」、つまり、「戦後の経済成長」の過去という対象の脱神秘化を行わないから、今の政治がこんなに惨めな姿になっているんじゃないか、と。

これは日本の政治を考える上でのたったひとつの見方だし、だからといって、経験者である人たちにそれを忘れろなんていうのも無理なのかもしれない。
でもそれをしなけりゃどこに行くのか。

外交といっても、けっきょく日米関係。
なんとなくずっと、自民党がうまくやってくれたから、というイメージにしがみついている。

日本が権威(例えば天皇制)を神秘化し続けた過去を持っていることが大きいのかもしれない。
お上はそういうもんだから、的な考え方の蔓延。

戦後を経験した政治家から経験してない若手の政治家に総とっかえ!なんてこともできるわけではないし、政治思想家や哲学者たちがまさか「政治家」になるわけにもいかないし。

とりあえず、政治家たちにもう少し賢明になってもらいたいものですが・・・。
支持率がこんなに下がったことについても受け止め方があまりにもずさん。
経済成長はあったけど(それもすでに過去の話で・・・)、
政治的成長はまだ始まってすらいない気がする。

identity & violence

Amartya Sen

"If what is ultimately important is cultural freedom, then the valuing of cultural diversity must take a contingent and conditional form. The merit of diversity must thus depend on precisely how that diversity is brought about and sustained." (Sen, 2008,p.116)



たった数行だけど、すごく大切なことを言ってる、と思ったから抜粋。
たった数行だけど、考えることはたくさん。

Wednesday, February 18, 2009

捻挫


今朝自転車で出かけた直後。

ガツン。
接触事故。叫んだよ、思わず。
私が優先だったのは明らかで、突然横道から勢いよく飛び出てくるからぶつかった。
私はもちろん転びました。
もしその瞬間に横に車が通ってたら、私完全にひかれてましたわ。
相手はひたすら平謝り。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか、すいません・・・」って。

で。
そのときに
「あ。大丈夫です」
って言っちゃうよね?
突然のことにびっくりだし、なんとなく気まずいし。

でも。
歩き始めたら足首・・・痛いぞ。
最初は、ま、いいや、と本当に「大丈夫大丈夫」と思ってたけど。
電車にのって、バイト先に着くころには、本気で痛くなってた。
だから大慌てで湿布購入。
なぜかこういう日に限ってタイツなんかはいてるから、貼るのが非常にめんどくさい。
バイト先のトイレでごそごそごそごそ・・・・。

整形外科に行かなきゃだろうけど、木曜日って休診ばっかだー。
ったく。

にしても。
あんとき、
「大丈夫じゃないです。湿布買うと思われるので、連絡先教えてください。」
なんていえないよねー。
はぁ。痛い。

Tuesday, February 03, 2009

プロフェッショナリズム

この前、フランスの大学教授夫妻とお話をする機会があった。
行ったのは、広尾にある、Chocolatier Bonnat のお店。
最高においしいホット・ココア飲んだことも十分話題性はあるのですが。

そこでちょっと、はっとした話がこの、プロフェッショナリズムの話。
このチョコレート職人さんが、日本に展開をした理由のひとつが、
「日本人にはプロフェッショナリズムの精神があるから」ということだったらしい。

奥さんが、フランスでは、職業に対してのプロフェッショナリズムが欠けてる。
という話をしていた。

彼らの例え話は、大学の事務の人たちのやる気のなさ、学生にあたる意味のなさ、などなど。
たしかにたしかに、とうなずける話。
その点、日本の大学の事務室の手際のよさ、対応のよさには驚く。
外を見てしまうと、日本での物事の流れがものすごくスムーズだというのを実感することになる。

私はこういう話をプロフェッショナリズムという観点から考えたことはなかった。
たしかにそういわれれば日本では、
対応のよさが当たり前であるべき、という考え方に基づいている。

⇒お客様は神様、精神。

ただ、やりすぎっしょ、と思ってしまうことも多々あることは否めない。
もう少しリラックスすりゃいいのにー、とか、
あまりにも完璧にやろうとするから、逆に柔軟な対応ができなかったり、
しまいには自分から考えることをしなくなる人も多い気がする。

友達が人から聞いたという話だけど、
日本で生活をしていると、あまりにもすべてが自動的にやってもらえちゃう気がして、
どんどん自分の創造力・想像力が欠けていく、と。
もちろん自分でその辺は気をつけるべきって部分もあると思うけど・・・。

⇒つまり神様になったと勘違いするな、と。

完璧対応や完全○○対策。
それをやりすぎるから、電車やバスでのアナウンスがやたらとうるさかったり、
客や利用者の立場からすると、
どうも子ども扱いを受けてる、と感じたりしてしまう。

でも、もちろん自分の仕事にプライドを持っている人はどこの国にもいるわけで。
例えば日本の和菓子職人もフランスのチョコレート職人も多分同じくらいのプロフェッショナリズムで自分の仕事に臨んでるはず。

社会のどこでこういう精神は育まれていくんでしょーかね。
と、お会いした後にごちゃごちゃ考えてみた。